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弘前城跡と津軽氏

弘前市は津軽10万石の城下町として、約400年の歴史をもつ町です。弘前のシンボルである弘前城の歴史は古く、津軽藩祖為信が津軽統一を成し遂げたのが始まりです。青森県を津軽・南部領に分断した津軽為信による津軽統一は、近世の幕藩体制の基本的な枠組みを完成させた出来事であり、中世の終焉であったといわれています。

弘前城跡

弘前城跡は、弘前市の中心部に西に岩木川、東に土淵川を配し、東西約630メートル、南北約1000メートル、面積約4800アールの広大な地域をしめています。かつて高岡(寛永5年弘前に改称)と呼ばれた地名がしめすとおり、海抜約50メートルの舌状の台地に建てられた平山城です。三重の堀をめぐらす6つの郭、天守閣、三つの櫓、五つの城門が現存します。
この城は、藩祖津軽為信が築城を計画し、二代藩主信枚が慶長15年(1610)から工事を始めました。江戸から大工数百人を招いたと言われています。また屋敷建設のための普請材木を、碇ヶ関から平川へ流して運んだため、蔵館山や石川近辺の山は伐採されつくしたようです。翌16年5月城がほぼ完成し、家臣ともども移ってきました。
当初、天守閣は五重の立派なものでしたが、落雷で焼失し文化7年(1810)に再建されました。三重の小規模となりましたが、西に岩木山を眺望できる風格のある、天守閣が現存しています。
本丸北の内北の郭は、「北の本丸」の名もある隠し郭です。鈎形に本丸の東・南に構える二の丸は、かつて重臣の屋敷や太鼓櫓がありました。外堀で市街地と接する三の丸は、はじめ侍屋敷でしたが、元禄9年(1696)から、屋敷が郭外へ移され、評定所などの役所・藩校・籾蔵などが並ぶ行政用地となりました。本丸下の西の郭には、蓮池があり武器蔵や馬場がありました。
現在、三重櫓3棟・櫓門5棟が天守閣とともに、国の重要文化財に指定されています。また、築城当時の城域がほぼそのまま残されているのは、全国的に珍しく国史跡に指定されています。
城跡は桜の名所としても名高く、3000本のソメイヨシノ、ヤマザクラが咲き誇っています。秋はまた、カエデや落葉樹が城の石垣と岩木山を背景にくりひろげる紅葉も見事です。

ご利用案内

開館時期
4月1日~11月23日

開館時間
午前9時~午後5時まで

お問い合わせ先

弘前城資料館
TEL 0172-33-8733

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掲載の記事は、みちのく夢ネット[こだわり百科]より転載。写真は、青森県弘前市提供。

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