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中尊寺金色堂と藤原氏

中尊寺金色堂

初代清衡の父親は、「前九年の役」で滅亡した安倍氏(妻の実家)に荷担していたため処刑され、清衡自身も刑死の運命にありましたが、母親が、「前九年の役」で功労のあった清原氏へ再婚することになり、危うく助かります。逆に、これをきっかけとして、清原の勢威を背負い、旧藤原・安倍の郎党をも引き継ぐという結果になり、ここに藤原四代の基礎が築かれます。時代は阿弥陀信仰など仏教信奉が深く根を下ろし、清衡もあつく帰依していましたが、父ばかりか妻子までも骨肉の争いのなかで失うという辛酸をなめており、1105年、50歳ころから始められた中尊寺など大伽藍建立という一代事業は、こうした前半生と無縁ではないでしょう。もっとも、これだけの大規模なプロジェクトを興す政治的・財政的な基盤がすでにできあがっていたことも見逃せません。

「五月雨の 降り残してや 光堂」と松尾芭蕉が詠んだ金色堂を中心に拡がる中尊寺は平安初期の僧・円仁の創建と伝えられていますが、実際には奥州藤原氏の初代清衡が、前九年の役・後三年の役の戦没者の冥福を祈るため、長治2年(1105)に建立をはじめたのが最初であると考えられています。その後清衡の子孫基衡・秀衡が造営を数十年にわたって引き継ぎ、遂には堂舎四十余、僧坊三百余を数える大寺院となり、都に劣らぬ藤原三代の文化を代表する華麗さを誇ったのでした。しかし藤原氏滅亡ののち建武4年(1337)に消失しますが、金色堂だけは幸いにも難を免れ、その創建当時の姿を今も偲ばせてくれています。現在見られるほとんどの堂舎は仙台伊達氏によって再建されたものです。

中尊寺を代表する、金色堂は、初代清衡が自分の遺骸を納める葬堂としてつくったもので天治元年(1124)に完成し、阿弥陀堂と呼ばれていました。その内外は漆塗りの上に金箔が張られ、その名の通りまさに金色きらめく華麗さで、内部もまた京都直輸入ともいうべき仏像と豪華な装飾によって荘厳された寂光浄土そのものでした。それは奥州藤原氏の財力とエネルギーを表現して余りあるものだったに違いありません。それまで土着の仏教文化しか知らなかったみちのくの人達は、どんな驚きの目をもってこの金色堂を見たことでしょう。中尊寺はまさに芭蕉が詠んだように、「夏草や 兵(つわもの)どもが 夢の跡」なのです。

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掲載の記事は、みちのく夢ネット[こだわり百科]より転載。写真は、中尊寺提供

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