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秋田竿燈祭り

秋田竿燈祭り

真夏の暑さがようやく静まりはじめる夕暮れ、秋田市内の大通りが光の稲穂で埋め尽くされていきます。その光景はあたかも夏の夜空から降りてきた天ノ川のよう。稲穂の数はざっと220本、1万個にもおよぶ堤灯を選り抜きの差し手若手衆が操ります。勇壮なお囃子の音と「どっこいしょ」のかけ声とともに、重そうな竿燈を額・肩・腰へと軽々と移し変えていくさまは、見る者の心を幻想と感動の世界へと引き込んでいきます。
竿燈の起源は、宝暦年間(1751年~63年)に遡り、不浄を祓い悪霊から身を守る行事として古くから伝わる「ねぶり流し」と豊作祈願の行事が結び付いたものといわれています。以来、秋田藩久保田城下の町民たちによって受け継がれ「竿燈」と名付けられたのは明治14年。明治天皇の巡幸を記念した景徳伝燈録の「百尺竿頭須進歩」に由来するものです。秋田藩史庶民の文化風俗を伝える行事として約250年を経て、竿燈は今や県内外、海外からも多くの人が訪れ、秋田を代表する夏祭りとして親しまれています。

秋田竿燈祭り

竿燈の妙技は力四分に技六分といわれ、接地面に根を張ったような安定感は誰でも真似できるというものではありません。名人によれば、持てるようになるまで1年、なんとかサマになるようになるまで3年、その先は際限がないといいます。まるで生き物のようにしなる竿は20m。総量約50キロ。その重みが直径7.8センチの継ぎ竹の根本に集中します。額・肩・腰の腫れや傷など、技の跡は祭りの後も3ヶ月は残るほど。
竿燈の背骨となる親竹に使われる竹は、すべて身の厚い国産で、しかも根本の節の間隔、太さなどの条件が厳しく、最適なものは300本に1本という割合。さらに、新しい竹は、軒下で2~3年枯らさなければ使えず、この親竹を中心とした竿燈の組み立てが、その年の祭りの明暗を占います。縄の締め方、竿のしならせ具合を完全に調整することも差し手の修行の一つです。

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